東京地方裁判所 平成6年(ワ)3295号 判決 1997年4月17日
本訴原告(反訴被告)
甲野一郎
右訴訟代理人弁護士
上條義昭
本訴被告(反訴原告)
乙川次郎
右訴訟代理人弁護士
佐野洋二
主文
一 本訴被告(反訴原告)は、本訴原告(反訴被告)に対し、金五〇万円及びこれに対する平成四年一一月二九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 本訴原告(反訴被告)のその余の請求を棄却する。
三 本訴被告(反訴原告)の反訴請求をいずれも棄却する。
四 訴訟費用は、本訴及び反訴を通じこれを五分し、その一を本訴原告(反訴被告)の、その余を本訴被告(反訴原告)の各負担とする。
五 この判決は、主文第一項につき仮に執行することができる。
事実及び理由
第一 請求
一 本訴
1 本訴被告(反訴原告、以下「被告」という。)は、本訴原告(反訴被告、以下「原告」という。)に対し、別紙記載の内容の謝罪広告を東京都品川区南品川<地番省略>所在マンション(以下「本件マンション」という。)地下一階管理事務所脇掲示板にB三判の用紙に明記し、一か月間掲示せよ。
2 被告は、原告に対し、五〇〇万円及びこれに対する平成四年一一月二九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 反訴
1 原告は、被告に対し、肩書地原告方において、午後一〇時から午前六時までの間、ゴルフのパターの練習をする等して、ゴルフボールを転がしてはならない。
2 原告は、被告に対し、五〇〇万円及びこれに対する平成六年二月二四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 本訴関係及び反訴関係の概要
1 本件は、本件マンションの六階に居住する被告が、その階上で発生する、ゴルフのパター練習によって生ずると考えられる騒音のため、生活の平穏を害されたとして、本件マンションの管理組合(以下「管理組合」という。)の総会で右騒音を問題とし、善処を求めたことに端を発した事案である。
2 本訴請求は、原告は、被告の主張するような騒音を発生させていないのに、被告が管理組合の総会及び理事会で、あたかも原告が騒音を発生させているかのような事実無根の発言を行ったことにより、名誉を毀損されるとともに、精神的苦痛を受けたとして、原告が被告に対し、謝罪広告及び損害賠償を請求するものである。
3 反訴請求は、原告が原告方で行うゴルフのパター練習によって発生する騒音のため、階下に居住する被告が、睡眠妨害等の精神的苦痛を受けたとして、原告に対し、夜間のゴルフ練習の中止及び損害賠償を請求するものである。
二 争いのない事実
原告は、本件マンションの七〇一号室(以下「原告方」という。)に、被告は、六〇二号室(以下「被告方」という。)に居住しており、両室は上下の関係にある。
三 争点
1 被告の主張する騒音が原告方で発生しているかどうか。
2 原告は、被告の発言により名誉を毀損されたかどうか。仮に、名誉毀損の事実が認められるとして、管理組合の総会等における被告の発言に公然性があるかどうか。
第三 争点に対する判断
一 騒音発生をめぐるこれまでの経過
右争いのない事実に証拠(<証拠省略>)を総合すれば、次の事実が認められる。
1 原告は、昭和五二年に東京国税局を退職後税理士資格を取得し、税務会計事務所を開業しているもので、原告方で家族とともに居住している。被告は、特許関係の会社に勤務していたもので、昭和五八年一一月以降被告方に居住しており、現在は右会社を退職している。
2 被告は、平成元年半ばころから、夜間階上からゴルフボール等が硬い板の上を転がるような騒音が聞こえるとして、同年九月ころには、管理人室に苦情を持ち込んだ。また被告は、平成二年春には、当時本件マンションの管理組合の理事長をしていたS方を訪れ、上の方で騒音がして困っていると訴えた。
3 管理組合は、被告の右苦情を踏まえ、平成二年六月二九日に理事長名で全居住者に対し、深夜の音は階下に意外に響くものであるとして、洗濯機、足音、椅子を引きずる音、ゴルフボールを転がす音等の騒音に注意、協力するようにとの「おねがい」と題する文書(甲一)を交付した。
その後平成二年七月七日には、管理組合の理事会が開催され、生活騒音についてのアンケートを実施することが決定された。そこで、平成二年七月二一日には、本件マンションの全戸(六四戸)を対象として右アンケート調査が実施され、同年八月九日にその結果(甲三)が公表された。
4 被告及び妻は、平成二年九月一五日ころの深夜、原告方に電話を入れ、階上から騒音が聞こえてきた旨苦情を述べるとともに、ゴルフのパターの練習をしていないか尋ねた。そこで、原告は、そのような事実はないとして、被告らを原告方に招き入れ、原告方にあったパターマット、ゴルフボール及びパタークラブを取り出して被告の前でゴルフボールを数回試打し、この音であるかどうか確認を求めたところ、被告らは、この音が原因ではないとして、その場は納得した。
ところが、被告は、平成二年一一月一八日の管理組合の第八回総会(出席区分所有者一二名)において、階上からの騒音で困っているとして、これを問題とした。
5 管理組合は、右総会で騒音問題が討議されたことに言及するとともに、本件マンションの管理規約のうち、夜間他の居住者の迷惑となるような騒音を発生させることを禁止した部分を紹介し、これを周知徹底させる旨の文書(甲四)を平成二年一二月二五日付けで各戸に配布した。
6 平成三年一一月一七日に管理組合の第九回総会(出席区分所有者一三名)が開催されたが、出席した被告は、前年の総会の議事録に被告の訴えが記載されていないことに抗議し、依然として深夜の騒音に苦しめられているから、騒音問題を議事録に記載して全戸に配布するよう述べるとともに、管理組合による騒音源の解明と解決を要請した。
7 平成四年一一月二九日に管理組合の第一〇回総会(出席区分所有者一四名)が開かれたが、出席した被告は、いまだに騒音が発生すること、騒音はゴルフ練習機の穴の中にボールがゴロンと転がるような音に似ていること、発生源はかなり近くに限定されると考えざるを得ないが、六〇一号室(同一階の隣室)、八〇一号室(上方階)は騒音の発生源とは考えられないこと等を述べ、以前から問題としている深夜の騒音問題を解決するよう要請した。
そこで、管理組合では、これまでの取組にもかかわらず、依然として騒音に悩まされている居住者がいるとして、理事長名で、「深夜騒音被害に関するお知らせとお願いのこと」と題する書面(甲七)を全戸に配布したが、その中で、訴えのあった騒音については、被告の苦情内容に基づき、「ゴルフのパターの練習の様な音で、ボールの穴に入る様な音や、玉を寄せ集める様なゴロゴロという音」であると具体的に記述したうえで、「お心当りの方は、何とか午後9時以降には、その様な音の発生する行為はお控え下さる様お願い申し上げます。」と記載した。
8 原告は、右第七ないし第一〇回総会には、委任状は提出していたものの、いずれも欠席していたが、甲七の文書は、原告が騒音の発生源であると決めつけていると原告に指摘する居住者もいたため、原告は、この問題について自らの見解を表明することを決意し、平成五年一月一一日付けで管理組合に対し、「騒音問題に関する当方のこれまでの経過と提案」と題する文書(甲九)を交付した。
原告は、右文書において、第一〇回総会で討議された騒音問題及びその後配布された甲七は、原告に関する事項と認められるが、このような騒音を発生させた事実はないとして、被告による苦情等これまでの事実経過を述べるとともに、この問題がいつまでも続くことは耐え難いとして、この問題を抜本的に解決するために、被告が騒音の発生源であると主張するゴルフ練習機を入手のうえ、管理組合の理事、管理人及び近隣居住者立会の下で当該機械を原告方に設置して試打し、音の確認実験を行うこと、被告方で騒音が確認されたら、時間、場所のいかんを問わず、直ちに理事及び管理人に通報し、関係者立会の下に、原告方で室内を調査することを提案した。
9 理事会は、平成五年一月一五日に被告を呼び、騒音発生状況について被告から説明を聞いたうえで、立会いを行うから、騒音が発生したら直ちに通報するよう告知した。しかし、その後被告からの通報はなかった。この間、理事会から連絡を受けなかった原告は、再度平成五年五月七日に「騒音問題に対する早期解決へ向けての取組みのお願い」と題する書面(甲一〇)を送付し、理事会に対し、この件につき責任ある回答をするよう強く要求した。
10 管理組合では、前述のとおり既に被告に対し、問題の騒音が発生したら、直ちに通報するよう告知していたにもかかわらず、その後も連絡がなかったため、平成五年六月二六日の理事会で、被告の出席を求めて、改めてこの点を問いただした。これに対して被告は、騒音は今でも続いており、その発生源は原告方であると考えられる旨明言したものの、右連絡をしなかった理由については、多忙であったからと弁解するだけであった。そこで理事会は、右理事会において、管理組合としては、これ以上この問題に関与できない旨を被告に文書で通告することを決定し、被告に対し、これまでに被告からの問題提起に再三にわたり協力し、また平成五年五月中旬からは、騒音が発生したときはいつでも聞きに行く旨申し出たのに、一か月以上経過しても何の申し出もなかったのは遺憾であり、理事会としては、この問題には、これ以上関わることはできない旨の内容の同年七月三一日付け文書(甲八)を被告に交付し、その後この問題からは手を引いた。
その後原告は、平成五年九月二四日に本件訴訟を提起した。
11 被告は、平成二年ころから原告方から聞こえてきたという騒音を記録していたが、その後、後述するように、右騒音を客観的に明らかにする必要があるとして、被告方の上方から聞こえる音を録音するようになった。そして、平成六年二月一一日には、当時管理組合の理事長であったH夫婦及びS夫婦が、被告方において、被告からの要請を受け、午後九時ころから約一時間余にわたり、階上から騒音が発生するかどうかを確認した(以下「平成六年調査」という。なお、この結果については後述する。)。
12 当事者双方の訴訟代理人は、本件訴訟において、騒音源を客観的に確定する方法を考え、平成七年九月ころから一〇月ころにかけて、原告が自宅の鍵を管理人及び管理組合の理事に預け、被告が騒音の発生を通報した場合には、管理人又は理事が被告とともに、原告方に立ち入り、その場で騒音発生状況を確認するという手順のもとに、騒音の有無を調査することが計画された。ところが、被告は、本件騒音は人為的衝撃音であるから、今後同種の頻度で同一の継続時間、強度の騒音が発生するとは考えられないとして、右申入れを拒絶した。
13 その後、平成八年六月一一日に当事者双方及び訴訟代理人ら関係者が集まり、原告方の和室及びリビングルームでゴルフ練習機を使用し、これによって発生する音を被告方和室で、被告がこれまで録音に使用してきた機材で録音する実験(以下「本件実験」という。)が行われた。そして、右実験に立ち会った日本騒音防止協会事務局長の福原博篤(以下「福原」という。)は、こうして収録された音と被告方における騒音を録音したものとして被告が提出したテープとを比較すると、聴感上はよく似た音色であるものの、衝撃音の発生、周期及びレベル(被告提出の資料はこれらが不規則であるが、ゴルフ練習機によるものは、ほぼ一定値を示しているという。)並びに周波数分析(被告提出の資料は一つの卓越周波数であるが、ゴルフ練習機によるものは三つの周波数になっていることが多いという。)によれば、「両データの音源を全く同一のものと断定するには無理があるものと思われる。」との内容の測定報告書(甲三四)を平成八年七月付けで作成した。
二 騒音の有無についての認定
1 証拠(<省略>、弁論の全趣旨)によれば、騒音の発生状況に関する被告の主張及びそれに対する被告の調査活動は、次のとおりであると認められる。
(一) 本件騒音は、平成元年半ばころから生じたもので、午後九時半ころから始まり、途中中断をはさみつつ、翌日午前零時三〇分ころまで、時には午前二時半ころまで毎日のように続いており、ゴルフボール又はボーリングのピン等の硬くて小さなものが硬い板の上を転がるような種類の音である。被告は、この騒音を形容して「ゴロンゴロン」又は「ゴロゴロ」と表現している。
(二) 右騒音は、本件訴訟提起後は多少低くなったが、発生する時間が不規則になり、より遅い時間帯にも発生するようになった。被告が、平成五年一〇月六日から平成六年三月二二日までの間、原告の帰宅時間、旅行等による不在期間まで確認したうえで、階上からの騒音の発生状況を記録したとする「騒音日誌」と題する書面(乙三)によれば、騒音は「ゴロゴロ」という音が主であるが、「ドーン」等の音もあるとされる。被告は、平成六年一年間では、この種の騒音が発生しなかったのは、七日間だけであると供述する。もっとも、本件実験以後は騒音は収まっている。
(三) 被告は、騒音を記録するだけでは不十分であり、騒音源を明らかにするためには、当該騒音を録音し、記録化するほかないと考え、連日五、六時間にわたり被告方において上方から生ずる音の録音を続けたが、より正確な騒音を録取するために、集音マイクを被告方の天井に接して録音することもあった。そして、録音済みのテープは、平成八年一月の時点で三五〇本にのぼっており、その中には生々しいゴルフボールの音そのものも含まれていると供述する(乙一一、二四)。
(四) 騒音防止協会の後藤剏は、被告の依頼を受けて平成六年三月及び四月の二回にわたり、被告方で騒音を採取した結果、この音は、被告方から提出を受けた録音テープの再生音と同性状の音であり、人為的な音であり、質量が小さく硬いものの衝撃によるものと考えられ、騒音源は、被告方の上方かつ近い所にあると推定すべきであるとする平成六年四月二五日付け見解書(乙五)を作成した。
(五) また、日本音響研究所(所長鈴木松美)は、被告の依頼を受け、被告が、平成六年調査の際に被告方の六畳和室の天井付近でマイクを使用して録音した音を、実験室の階上でゴルフボールを転がしてゴルフ練習機に強く接触させて発生させた音を階下の部屋の天井付近で録音した音と対比、検討した結果、被告の提出した右テープに録音されていた音は、原告方でゴルフボールと形状、質量、材料がほぼ同等の物体と、右練習機に類する物体とが強く接触した際に発した音を被告方で録音したものと推定できるとの平成七年八月二一日付け鑑定書(乙一七)を提出した。また、同研究所は、被告が平成六年調査の際に録音したテープと本件実験によって発生した音を録音したテープの衝撃音とを周波数分析等により対比した結果、両者は同種のものと推定されるとの鑑定書(乙二五の1・2)を平成八年一二月四日付けで提出している。
2 しかしながら、結論的には、原告方から被告の主張するような騒音が発生していたとは、認められないというべきである。
(一) 被告は、前述のとおり、平成元年以降、夜間階上から耐え難い騒音が発生している旨るる述べるものの、前記認定に照らせば、被告の訴えを聞いた第三者がその騒音を確認することができる場を設けることには、必ずしも積極的ではなかったと認められる。これは、前述のとおり騒音発生の事実を管理組合の総会又は理事会で毎年のように指摘し、騒音源の解明及び解決のために善処を求めていた者の行動としてはきわめて不自然かつ不合理であり、当時、被告の主張するような激しい騒音が発生していなかったことを強く推測させるものである。
被告は、騒音が発生していたのに理事の立会いを求めなかったのは、当時は被告の仕事が多忙であり、慢性疲労状態にあったこと、当時は騒音が深夜一二時前後以降発生する等不規則になっていたため、このような夜間に通報することは理事を煩わせ、申し訳ないと思ったからであること、当時被告の妻がストレス性の狭心症による発作を多発させていたことによるものであり、また、平成七年の前記調査申し出を拒絶したのは、前述のとおり、このような実験方法は人為的であるから無意味であると思ったからである旨弁解する。
しかしながら、右弁解はいずれも不合理であり、被告が第三者による確認を求めなかった理由として首肯できるものではない(被告の主張するような事情が真実存在したのであれば、こうした時期に騒音によって被告らが受ける被害は深刻なものとなっていたはずであるから、なおさら、早期に騒音の発生を第三者に確認させる行動に出たはずではないかとの疑問を払拭できない。)。
(二) また、福原が本件実験の際に収録された音を検討した結果(甲三四)も、原告方のゴルフ練習機が原因となって被告の主張する騒音を発生させていることにつき、疑問を生じさせるものである。
なお、証拠(乙四六)中には、本件実験は夕方六時ころに行われたものであり、夜間と比べて屋外の騒音や多数の関係人が居合わせたことによる暗騒音が多く、被害の実態とはかけはなれているとの記載がある。しかしながら、証拠(甲三五)によれば、福原は、本件実験は日時に左右されるものではなく、機材の設置条件を整えれば、暗騒音に影響されない範囲で騒音を測定することによって何ら問題はない旨反論していることが認められる。右と対比すれば、乙四六の右記載は、容易に信用することができない。
(三) そもそも本件は、本件提訴時までの管理組合の総会及び理事会における被告の言動が原告の名誉を毀損するかどうかが争点であるから、この時点で被告の主張するような騒音が現実に発生していたかどうかがまさに問題とされるべきである。したがって、仮にその後騒音の発生が認められたとしても、これをもって直ちにそれ以前の騒音の存在が立証できたとはいえないと考えられる。そうすると、本件訴訟提起後被告の行った騒音測定については、本件における立証方法として果たして適切かどうかという根本的な疑問がある。
また、この点をおくとしても、客観的なデータを提供する騒音測定を行うに当たっては、計測用の器機を準備することに加え、音響工学に関する専門的知識及び技術も必要となるところ、被告がこれまでに独自に行ったという前記騒音測定の結果は、いかなる機種をいかなる特性の下で使用し、いかなる方法によっていかなる音を採取したものであるか等が明らかにされていない。そうすると、前述のとおり被告が被告方の階上から聞こえる騒音を録取した膨大なテープを保管しているとしても、その客観性には多大の疑問が残り、被告の主張する程度の騒音の発生を裏付ける証拠とすることはできない。被告が、録音時間を明らかにするためにラジオの時報、ニュースや被告方の時計の音を交えて録音する等の工夫を行っている(乙四六)からといっても、右結論は左右されるものではない。現に、本件実験を実施した福原は、甲三四の結論等に対する被告の種々の質問に答えたうえで、被告がこれまで行ってきた騒音測定についても言及し、同手法は、音響計測、評価の専門の立場からみれば、そのデータの収集、評価について客観性に欠けており、データの絶対値や信頼性に欠ける可能性があることを付言している(甲三五)。
以上の諸点を総合すれば、被告が本件で強調する独自の騒音調査は、少なくとも現在の手法を前提とする限りは、今後どれだけ継続されたとしても、第三者を納得させるに足るものではないから、真相究明に資するとは考え難いばかりか、かえって、原告らの行動を調査する過程で原告その他本件マンションの居住者を巻き込み、新たに深刻な紛争を惹起させるおそれすら払拭できないものといわなければならない。
(四) 被告の主張に沿うかにみえる前記調査結果も、これを子細に検討すれば、いずれも、被告の主張するように、被告が提出したテープに録音されている音が、原告方でゴルフ練習機を作動させたことによって発生した音であると断定するものではなく、あくまでもその可能性があることを述べるに止っており、前記甲三四の結論にも照らせば、これらの調査結果をもっても、被告の主張する騒音の発生を認めることはできない。
(五) なお、証拠(乙六、二三、証人S'[一、二回]、被告本人)によれば、平成六年調査の際に被告方で騒音の有無を確認していたH及びSの両夫婦が、階上から低いゴロゴロという音が数回発生したのを聞いたことが認められる。
しかしながら、右証拠によれば、Hは、右の音を聞いた際に、これがゴルフの練習機の発する音であるとは明確に認識できなかった旨述べているうえ、Sらも、実際に聞いた音が被告の主張していた騒音とは異なるとの印象を持ったため、もう一度聞かせてくれるよう被告に依頼したこと、その場に居合わせた被告の妻は、今の音はいつもの騒音とは違う旨供述し、当日の騒音がさほど大きなものではなかったことを自認していたことが認められる。したがって、平成六年調査において、第三者が音を聞いた事実によっても、被告が本件訴訟で主張するような強度の騒音が発生した事実を認めることはできない。
(六) 結局、右(一)ないし(五)に照らせば、被告は、長年にわたりゴルフ練習機によると考えられる騒音が原告方から発生している旨訴え続け、これを本件マンションの管理組合等において問題としておきながら、これを明らかにする証拠については、自己が適切と考える証拠によって十分認められるとして、これに対する疑問点の指摘に耳を貸そうとはせず、自らSらを招いて階上の音を聞いた前記平成六年調査及び本件実験以外には、被告方で騒音が発生したときに第三者の立会いを求める等、第三者が騒音の発生状況を認識できるようにする作業を行おうとしなかったとの評価を受けてもやむを得ない。これは、何としても自らの手で騒音源を究明しなければならないという被告の信念から出たものであったとしても、きわめて独善的な態度といわざるを得ない。
そして、このことに、前記認定の本件における原告及び被告双方の行動、被告の主張する騒音の発生を強く否定する原告本人の供述及び陳述書の記載(甲一八、三二、三六)をも総合勘案すれば、被告の前記主張に沿う証拠(乙一、三、一一、一九、二四、四六、被告本人)は信用できず、結局被告の認識にかかわらず、社会生活上受忍できる限度を超えた騒音が平成元年から本件提訴時である平成五年にかけて客観的に発生し、それが原告方におけるゴルフ練習機によって発生したものであるとは、客観的に認めることはできない。
三 本訴及び反訴に対する判断
以上の認定及び判断を前提に、本訴及び反訴について判断する。
1 本訴
(一) 前記認定及び判断によれば、原告が被告の主張するような騒音を発生させた事実は、いまだ認めることができない。それにもかかわらず、被告は三年間にわたり、合計三回の管理組合の総会において、階上からの騒音を問題とし、しかもその際、騒音の発生源が原告方であることを示唆する発言を行い、また理事会では、具体的に原告の名をあげて、原告が騒音を発生させていることを明言してきたものである。本件マンションのような集合住宅においては、他の居住者の迷惑となる行為をしないこと、とりわけ階下その他周辺居住者の生活の平穏を害する騒音を発生させないことは、いわば居住者として当然に守るべき最低限のルールである。ところが、前記認定の被告の発言は、これを聞く者に対し、原告が税理士という地位にあり、しかも管理組合によって夜間の生活騒音を防止するよう要請していたにもかかわらず、こうした最低限のルールすら守ろうとしない自己中心的かつ規範意識のない人物であるかのような印象を与えるものである。
したがって、本件における被告の発言は、原告の社会的評価を低下させ、その名誉を毀損するものとして、違法と断じられるべきものである。
(二) 被告は、本件における被告の発言は、騒音の発生源が原告方であると断定したものではないうえ、管理組合の総会及び理事会という限られた場におけるものであって、公然性がなく、現に本件マンションの多くの居住者は、こうした事実を知らないから、名誉毀損を構成しない旨主張し、証拠(乙六、七、乙八の1ないし5、乙九、被告本人)には右に沿う部分がある。
しかしながら、前記認定に照らせば、被告の発言は、その前後の供述内容と総合すれば、少なくとも本件マンション居住者にとっては、騒音発生源について明言していなくとも、これが原告方を指すものであることが容易に推測できるものである。少なくとも平成五年当時には、本件マンションの居住者の相当数が、被告がゴルフの練習によって発生したと考えられる騒音による被害を訴えており、しかも、被告方の階上に当たる原告方がその発生源と考えられることを認識しているものと認められる。また、管理組合の総会における被告の発言は、まさに居住者全員が出席しようと思えば出席できる場において行われたものとして公然性を肯定することができ、実際に総会に出席した居住者の多寡により結論が左右されるものではない。さらに、証拠(<省略>)によれば、理事会には、管理組合の理事のほか、本件マンションの管理会社である株式会社三越ビルサービスの担当者数名及び本件マンションの管理人らも出席しており、被告自身原告の名前を具体的に示したことを認める平成五年六月二六日には、A理事長のほか、理事四名、B前理事長、右三越ビルサービスの担当者二名及び管理人二名が出席していたことが認められる。これによれば、理事会の場における発言についても公然性を認めることができる。
以上によれば、被告の発言には公然性が認められ、この認定に反する前記証拠はいずれも信用できない。したがって、被告の右主張は採用できない。
(三) そして、被告による発言の内容、発言の期間、発言の行われた機会、原告の地位、当事者双方の事情、その他本件に現れた一切の事情を総合考慮すると、原告が右名誉毀損により受けた精神的苦痛を慰謝するための金額は、五〇万円をもって相当であると認める。
(四) 原告は、損害賠償の請求に合わせて名誉を回復するのに適当な措置として、謝罪広告の掲載を請求している。
しかしながら、本件は、被告が原告方が発生源であるとする生活の支障となる騒音被害を訴えたところ、結果的に当該騒音が認められなかったことから、管理組合の総会等における被告の発言が、騒音発生源とされた原告の名誉を毀損したものと判断された事案であり(本件全証拠によっても、被告が当初から原告の名誉を毀損しようとの意図の下に、現実には存在しない騒音被害を捏造し、管理組合の総会や理事等に申告したとまでは認められない。)、その限りで被告にも斟酌すべき余地がある。また、前記認定のとおり、居住者の少なからぬ者が、本件の証人又は当事者双方のために陳述書等を作成しているのであって、これらに照らせば、既に本件マンションの相当数の住民が、好むと好まざるとにかかわらず、関与を余儀なくされていると認められる。
これらの事情に照らせば、本件において、被告に対して謝罪広告を命じ、この問題を本件マンション全体に知らせることは、紛争を再燃させるばかりか、新たな紛争を惹起させる可能性も否定できない。
したがって、これらの観点に照らせば、本件における原告の名誉毀損に対しては、被告から原告に対して前記慰謝料を支払わせることをもって十分であり、それ以上に謝罪広告を命ずることは相当ではないと判断する。
2 反訴
右認定に照らせば、本件については、被告の主張する態様の騒音が発生した事実を認めることはできないし、仮に、被告方で何らかの騒音が聞こえるとしても、原告方でゴルフ練習機を作動させたことによるものとは認められない。
したがって、右騒音の発生を前提とする被告の反訴請求は理由がない。
四 結論
このように、原告の本訴請求は、不法行為に基づき被告に対して五〇万円及びこれに対する不法行為の日の後である平成四年一一月二九日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があり、その余の請求はいずれも理由がなく、被告の反訴請求は、いずれも理由がない。よって、主文のとおり判決する(なお、本件は、マンションの上下に居住する居住者間の騒音をめぐる紛争であるが、紛争は長期化しており、前述のとおり、居住者の少なからぬ者が本件に関わっている。また、被告による騒音調査は、前述のとおり、真相究明に資することはないばかりか、かえって、本件マンションの他の居住者を巻き込んで新たな紛争を惹起させるおそれすら否定できない。当裁判所は、原告及び被告が今後とも本件マンションを生活の本拠として、いわば階上階下における隣人として居住していかざるを得ない関係にあること、その他本件に現れた諸般の事情を勘案し、当事者双方が本判決を契機に、早期に円満な解決を図ることを切に希望するものである。)。
(裁判官田中敦)
別紙<省略>